「トランス」を観て。
劇団パンダデパートさんの2015年秋公演「トランス」の11/1(日)13:00-の回を見てきました。
こういったものは常に自分との対比ですから、内容にも触れますが、他人が見ればよくわからない文章になるだろうなと予想します。
公演を見た感想というより、自分の思考の断片のメモなので、あまり参考にはならないかもしれません。
一応ネタバレになるかもしれませんので、ここからは続きを読むで。
(以下、ですます調とだである調が混ざっていますが、あえてです。)
まずはじめに
難しい。
とても難しい。
私が真面目すぎるのか、真剣に見てしまうからでしょう。
演劇を見慣れていないというのも一つの要因だと考えます。
脚本の鴻上尚史さんや、演者の方々が恐らく考えていないことまで考えてしまう癖があります。
自分のことなのだから当たり前です。
他人が知る由もありません。
冒頭にも書いたように、こういうものは常に自分との対比ですから、自分がどう感じたのか、自分は何を考えるのかを注視して見てしまいます。
目の前に起こっていることそのものよりも、自分の妄想がどの方向に向かうのか、はたまた、自分の思考がどうなっているのか、そういうことに注目してしまう自分がおります。
恐らく演劇の130分の時間の10%は目をつぶっていたことでしょう。
内容
概要を短く書くのは得意ではないですが、努力します。
高校時代の友人同士である、精神科医の紅谷礼子、フリーのライターの立原雅人、オカマバーで働く後藤参三の3人は、立原雅人の離人症をきっかけに再会する。
立原雅人は分裂症の症状で、日に数時間、のちに何日間も、自分が南朝の末裔の“立原天皇”であると思い振る舞い始める。
参三は立原天皇の側近を演じて、礼子は主治医として雅人を支える。
その中で起こる葛藤と恋愛が絡む人間ドラマ。
オチを書くのは性に合わないので書かないでおきます。
内容に対して
内容についての感想を言うのはあまり意味が無いかもしれませんが、自分にとってはここがメイン。
哲学的なこと
やはり、人は一人で生きていくことができないのだなと。
むしろ、本質的に一人で生きていくことができないからこそ、他人を必要とするようにプログラムされていると考えたほうが自然。
現代の物語というものはこういったものがフィーチャーされているように思えて仕方がない。
やはり生きることが難しくなくなると人はこうなるのか。
それとも、多数の物語が生まれて煮詰まってきた中では人間そのもの、一番近い存在に回帰していくのか。
違うな。
現代には現代なりの問題が存在するし、それは時間と共に変容する。
問題が尽きることは恐らく無くて、もちろん問題の波、何年か周期で同じような課題に出会うことはあれど、その波の中で暮らしているのが人間であるように思う。
違うな。
本質は同じことが多い。
ただ、時代によってそれの表面化の仕方や、人間の捉え方が変化しているだけ。
事実も人によって違う、真実も違う。
事実を受け取った時点で人間はすでに言語化を行っている。
その時点で事実は真実となる。
つまり、事実自体は存在するものの、事実は継続して存在しているものではないのだ。
もちろん時間が連続である以上、事実自体の継続性は認められるものの、要は“生もの”のようなもので、その瞬間に事実は事実でなくなってしまう。
それがそこにある事実と真実の正体であると考える。
起こっている事実や、感じたり伝えられた真実は違えど、真理は常に同じ。
真理から発生した事実が時代によって異なるだけだ。
人間の目に見える見え方が多少異なるだけで、横たわっているものは常に同じ。
人間の考え方や感じ取り方が時代によっても変容する。
だからこそ、千差万別で、無限の物語で、予測のできないものだと感じる人もいるかもしれないが、それは少し私のそれとは異なる。
真理というものは人間そのものなのだ。
この宇宙に横たわる“理”というものは人間の存在そのものなのだ。
人間の存在そのものがこの世でありこの世界を構築しているし、むしろこの世界そのものが人間で、人間はこの世界そのものなのだ。
万物をコントロールする方程式、それはすべて人間と同一だということができる。
では人間の心の底にあるものはなにか。
それを知ることがこの宇宙全てを知ることだと思って自分を深く掘り下げて行く。
そこでだ、オチから言えば“無”に気がつくわけだ。
劇中でも立原雅人という登場人物が自分の“無”に気がつくシーンがあった。
自分は何者でもない、と。
自分は“無”である、と。
その通り。
人間は「無」である。
インド哲学でいうところの「お前はそれである」、つまり「梵我一如」の考え方だ。
それが如実に表れているなと感じた。
残ったところ
あとは2点ほど、昔悟ったことの例が出てきた。
・「病理の自覚があるうちは狂ってない」
分かるうちは狂ってない。
自分で意識があるうちは大丈夫なのだと。
気がつかないほど怖いことはない。
指摘されてぞっとする瞬間など、気がつく瞬間こそ一番怖いのだと。
自分から「変人だ」「ぼっちだ」アピールする人は偽物だということですわ。
・「異常と正常は社会に生きることができるか否か」
これも私にとっては当たり前。
一歩道を間違えれば精神病院入りだったからよく分かる。
まだ他人から異端とみなされることが多いので、一般社会に紛れることができているかどうかと言われれば疑問だが、一応、生活はできている。
大学入ってからもう6回も警察官に職務質問されるし。
何にも悪いことはしてないし、向こうもそれが仕事ですから良いのですけれども、怒りはある。
どれだけ浮いているんだ自分はと自覚させられることが度々ある。
社会適合できるかの境界線をさまよった人にとっては案外当たり前なのかもしれない。
演劇をやっている人について
演劇に携わっている人が妙に哲学的だと感じることがある。
悟っていることや、世界観が妙に哲学者のそれと似ていることがある。
そういう傾向が集団としてあるなということを感じ取っている。
それは当たり前のことなんだということが分かった。
2014年の秋公演「アルジャーノンに花束を」を観て、今回の「トランス」を観てようやくわかった。
哲学的な題材を与えてくれる源泉が脚本にあるわけか。
なるほどなと思った。
前は演奏家のそれと近いものがあるのかなという解釈だった。
綾野剛さんが以前「自分はそこにない。脚本に書かれている役が自分を通じて、自分の体を借りて表れているだけだ」という風な意味の発言をしていた。
もちろん人それぞれではあるが、例えばそれのような感覚が哲学的にさせているのかと思っていたがそうではなかった。
また勉強になった。
お芝居(?)について
これは本当にど素人。
舞台や音響やら照明やら演技やら、ちんぷんかんぷん。
違和感なく観劇できました、と。
それでは味がないし説明不足。
私が何を思い、何を感じたのか理解し難いので素人感情にも思ったことをいくつか。
演技
上手。
観終わって後から気がついた。
見ているときは前述の通り、対比なんですよね。
だから思い出して、初めて気がつく大切さ。
素人目ですが、複雑で哲学的で、難しい役だと思いますわ。
毎度思うのはよく台詞が覚えられることで。
自分の専門外なので、毎回びっくりしてしまう。
楽譜を覚えることは容易でも台詞は難しい。
少し話は変わるが、ここら辺にもセンスが現れるような気がしてならない。
そもそも好きという感情はセンスがあることにしか湧かないのではないかと思っている。
自分にポテンシャルがないものに惹かれるということはないのではないかという憶測がある。
自分に何がしかのセンスがあるからこそ携わる。
そもそも全くポテンシャルのないものに対しては興味のアンテナは反応しないのではないかと感じてしまう。
つまりは、自分がなりたい職業や選んだ部活やサークルはそこで生きるためのポテンシャルが自分の中にあるものなのではないかと思う。
つまり何が言いたいかというと、演じられるからこそ演じているのであって、そうしていることが必然なのではないかと毎度のように思うのだ。
だからこそ素敵に思える。
センスがある人が、センスを発揮してる。
そういう姿を見せてもらっているなと感じるのである。
それこそが個性の一番わかり易い発現の仕方なのではないかと思う。
誰かのためじゃない。
自分自身のために自分がそうしている。
しかもそれを観ることはとても楽しい。
なぜか。
それは他者の個性を感じる瞬間であるからだ。
その人がその人である由縁。
それを垣間見るような気がする。
演劇だけに限ったことではないが、演劇は特にそういうことなのではないかと思っている。
もちろん、色んな捉え方があって、それも人それぞれだが、私はそう感じている。
だから楽しいと感じるのではないかと分析している。
役者は職業になっていたり、色んな形があるし、もちろんプロもあって、ビジネスだとか、世界観だとか、演じるということだとか、たくさんのことがありそうだ。
私のこれも楽しみ方の一つなのだろうなと感じる演技でありました。
総合的に
もちろん、面白さはそれだけじゃない。
芸術やら舞台やら演出やら、多数の要素があることは知ってる。
細かいことはわからない。
そこに面白さが隠れていることは分かる。
そういうものを毎度教えてもらえる。
単なる感想
いやはや。
緻密な練習が必要ですよこれは。
タイミングとか大変なのでしょう。
ど素人なので、何が大変だとか、何が難しいだとか、それすらわかりませんが、まあこれだけの作品を完成形まで持っていくのはしんどいことでしょう。
苦労が多いからこそ楽しいのでしょうが、すごいことです。
それはだって、ドラマやらを“普通に”観てしまう一般人ですから、演劇をみるときも“普通に”観てしまうわけで。
違和感なく観れるというのは、そりゃあこだわりも準備も相当なのだろうなと、想像止まりですが、感じるところです。
古典だなとも思いました。
昭和のボケとツッコミというか、オーバーリアクションというか、これこそ演劇らしい演劇というか。
そういう意味でも楽しめたところです。
取り急ぎ。
今日はもう遅いのでまた追記します。