ねいぴあの世迷い言

つれづれなるまゝに、をりをり、ぱそこんにむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

人間関係の終わり

どうも「この人間関係は収束していく」と感じるときがある。

人間関係の話。

文字での会話をしているときや、実際に話しているとき、あるいは日常生活を送っているとき、ふと「この人と関係希薄になるんだろうな」と思ってしまう瞬間がある。

それまでが(筆者が考えるに)良い関係性であってもそう感じることがある。

実際、そう感じたときには、経験上、その後ほぼその人とのご縁が切れる。

 

人間関係というのは、跳開橋みたいなもので、お互いに橋をかける気持ちなければ、人間関係を築くことができない。

これは先輩後輩、パートナー、友達などなど、人間関係一般に言えそうである。

 

実際には、それが細かい仕草だったり、言葉遣いだったりに現れているのだろうが、明確な理由は分からない。

ただ、それを機敏に感じ取ってしまうことがある。

まだ自分の中に、その人との人間関係を希薄にしたくないという思いがある場合、焦る気持ちが出る。

しかしながら、焦る気持ちも相まってか、予測の通り、その人との関係性が希薄になっていく。

それはきっと、自分ばかりが橋をかけたいと思っている状況に相違ない。

 

過去にそういった経験が多く、最近その感情になったときには、即座にそのあたりまで考えがおよんで、諸行無常を感じてしまう。

もう、筆者には、どうすることもできないんだと。

 

別に、喧嘩だったり、価値観の相違だったり、決定的に縁が切れる原因があるわけでもないのに希薄になることが多々ある。

実は深いところで、相手が筆者を合わないと感じ取っている気持ちが、そういう細かな所作に現れているのだろうとは想像する。

しかしながら、それは原因の一端に過ぎなくて、筆者が犯しているミスを気づいていないだけのような気もする。

そのほうが自然で、必然的である。

 

きっと、自分から手を引きたいと思うときもそういう態度が出ているのかもしれない。

そうなるのが自然な流れとなるように振る舞ってしまっているのかもしれない。

そういう必然的な行為を積み重ねていくことによって、ソフトランディングに人間関係を終焉に導いているのかもしれない。

 

一期一会というのは理解していても、残念であるとか、寂しいとか、わびしい気持ちになってしまう。

出会いがあれば、必ず別れもあるわけで、そういううねりのなかで、人は成長していくのかもしれないな、と、うさんくさい戯言を並べて、自分の心の平穏を取り戻そうとするのがやっとなのかもしれない。

 

以上。