ねいぴあの世迷い言

つれづれなるまゝに、をりをり、ぱそこんにむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

エッセイ「ブスの思考」

高校生の時にふと考えたことを思い出したので、書き記しておこう。

高校生の時分に、周りの人間を観察していて、ふと考えた。

筆者はいわゆる“非リア充”で、スポーツができるわけでもなく、勉強ができるわけでもなく、イケメンでもなく、面白くもなかった。

それでいるにも関わらず、人間関係が下手というか、世渡りが下手というか、何度も他人との衝突を起こし、先生や周囲の人に迷惑をかけることが多かったように思う。

それに加えて目立ちたがり屋で、何かにつけては騒ぎ立てる、面倒な生徒であったという自己評価を下している。

吹奏楽部に所属していて、少し性格に難があり、友達付き合いしづらい」というのが周りからの評価であっただろうと想像する。

自己のめんどくささを目立ちたがり屋という“アンプ”で増幅している部分は少なからずあったものの、本質的に周囲と異なる人間であることはどこかで自覚していたように感じている。

安直な言葉で表現するならば「周囲と合わない」「どこか違う感覚がある」などという思いを抱いていた。

当時は言語化することができなかったものの、今からすれば、その違和感は説明できるような気がする。

違和感そのものを説明できなかったゆえか、違和感から何かを考えるようになっていた筆者は、人間の“価値”について思いを巡らせるようになる。

周囲にはキラキラと輝いている生徒が多かった。

それは才能の原石のようなものであって、それぞれの得意が光り輝いており、筆者には相当まぶしく目に映り、心にトゲのように突き刺さった。

人間を入れ物に例え、その中に何を詰めていくか考えた時、彼らはもう既に光り輝く大きな原石を入れることができている。

それを悟った時既に遅し。

勉強にも真面目に取り組まず、趣味も中途半端で、有言不実行な筆者は相当な絶望感を覚えた。

例えばイケメンは、生まれつきその入れ物の中へ大きな原石が入っているのだ。

それは一種の運であり、努力が介在する余地こそあれ、持って生まれたものは良い意味でも悪い意味でも変えようがない。

人間という器の中に、勉強ができるだとか、スポーツができるだとか、イケメンだとか、面白いだとか、そういう風な大きな才能、および価値観などが、いっぱい詰まっている人は、ごまんといると。

筆者のような凡人は、何を詰めればいいのか。

そこで真っ先に思ったのは、「学」であった。

顔や肉体が優れていない人間は、学問(知識、知恵)を詰め込むしか無い。

そうすることで自分の相対的な価値を上げるより他ないのだと。

ここで、諦めたくなる気持ちが湧く。

カメが運良くうさぎに变化(へんげ)したところで、うさぎは最初っから走っているのだ。

先を行くうさぎと同じ速度で走れるようになったところで、そのうさぎはもっと速いスピードを出せるように成長して逃げていくのだ。

一生をかけても追いつくはずもない。

小学生から精進して、高校生になっても努力を怠らないうさぎに、小学生からサボって高校もサボっているカメがいきなり追いつけるはずはないのだ。

しかも、カメが努力したとて、相手はサボらないうさぎ。

勝ち目が全くない。

だがしかし、筆者はうさぎに勝つ気持ちは最初から無かったので、これに関する絶望感は薄かった。

天才には天才の仕事があり、凡人には凡人の仕事があるのだ。

この世界には天才の仕事だけが横たわっているわけではない。

そもそも上を見て追いつくなんて発想が、バカなカメのそれなのだ。

カメは、今同じスタート地点に立っているカメとの競争で勝たなくてはならない。

そこにシフトして勝負を仕掛けて勝っていくことこそブスのやることだと考えた。

それからは、自分という器に、いったい何を入れるべきなのか、はたまた、カメはどうやって速くなれば良いのか、ということを考え始めた。

その一つの答えが、自分の価値を唯一高めてくれるもの、すなわち教養であったような気がする。

とにかく様々なことを学ぶこと。

そして、実践して、活用すること。

ブスにはそれしか無かった。