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ねいぴあの世迷い言

つれづれなるまゝに、をりをり、ぱそこんにむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

浪人に対する心構え

ねいぴあ哲学

さて、ちょっとTwitterでは書けなくなった(約4400文字)ので、こちらに書きます。

 

最初はやはり落ち込むかと思います。

後悔しても意味がないことがわかっていながらも、自分の過去を振り返り、甘かった自分を責め続けて、心に負担がかかる日々を暮らしていました。

しかし、それはそれで良いのだとも思い始めました。

一年間ずっと落ち込んでばっかということはないでしょう。

人間ですから時間の経過と共に感情は薄れます。

自分がいま感じていることは正解なのです。

自分がいま感じるべき感情であるからこそ、そういう思いになるのです。

次に自分が進化するための準備、必要なことが落ち込みなのです。

落ち込んでいる自分自身を見て、いま自分は落ち込んでいるんだなと思えればもう第一歩かと思います。

すでに成長している証拠かと。

受け入れなければならない現実を人間はなかなか受け入れることができません。

プライドがありますから、自分に不利なことは受け入れづらいのです。

当たり前です。

そんなときも、自分にはプライドがあるのだなと、自分自身を認めてあげることができたならば、いまの自分自身の等身大の姿を捉えることができたならば、大きな一歩だと思います。

自分を振り返って浮かぶのは欠点ばかりです。

朝も起床までに時間がかかるクズでした。

何事も言い訳ばかりで、何となくで逃げ、自分自身に正面から向き合ったことなんてほとんどなかったように思います。

親や周囲の人に対する謝罪の気持ちしか湧いてきません。

自分のこと、たった朝起きる、それだけのことすら満足にはできないどうしようもない人間だったかと思います。

浪人。

一切逃げ場はありません。

逃げると言うことは、世界に一人しかいない自分自身から逃げ、人生を、自分の生きる道を否定することです。

何をやっても思います。

テレビを見ても、ゲームしても、立ち読みしても、コンビニによっても、お風呂に入っても、ご飯を食べても。

これは無駄なことではないか。

自分にいま課せられているのは勉強することのみだと。

勉強することこそが自分の正しい姿であり、自分の生きる道なのだと。

甘い自分に喝を入れるチャンスを親が与えてくれました。

それを棒に振って、甘ったれた生活を送り、親が死ぬまでずっとすがっていくような正真正銘のクズに成り下がるのが本当に自分の望んだ道なのか。

それとも、この一年間、腐り果てた自分から進化して、社会で生きていくための、自分の道を成していくための力をつけるために、頑張ってみるのか。

岐路に立たせてもらえるということはチャンスがまだあるということです。

没落していない、腐りきってないということは、まだ可能性が自分の中にあるということです。

救いようのないクズではないということです。

その可能性の火を、自分自身の手で、大きくしていくか、消すのか、ある意味自由です。

自分が何もしなくても火は勝手に消えていきます。

何もしない分だけ、着実に消えます。

だって、その時間、火を絶やすまいと努力している人が火を大きくしますから。

もともと大きい人は受かるんです。

もともと受かる奴はいるんです。

私なんかは、まだわからない存在だったのです。

頑張れれば合格、頑張れなければ不合格になる人間です。

それが努力しなくてどうします、と思ったりしました。

もちろんもともと落ちるやつもいます。

その存在になりかけているのです。

浪人するには訳があります。

原因のない結果なんてありえません。

落ちるには落ちるなりの理由がある。

結果を見て、どうこう思ってもそれが次の結果には影響しない。

落ちたという事実、それを見て自分が評論家になってもどうしょうもない。

評論家になることは次の当落には全く影響しない。

落ちた。ただそれだけです。

それ以上でもそれ以下でもない。

もちろん合格するには合格するなりの原因があります。

当たり前です。

もし、合格可能性というものがこの世に存在していたとしたら、例えば自分がサボった瞬間、可能性が低くなるでしょう。

落ちる原因を自分で作っているのですから。

サボるという落ちる原因をつくって、ただ落ちるだけです。

当たり前で単純なことなのです。

受かる原因を積み重ねて合格する、落ちる原因を消していって合格する、加点方式減点方式、さまざまかと思いますが、私は減点方式かと思っています。

受験までにやることなんか山ほどある。

それを全部終わらせることができる受験生がどこにいますか。

どこまでやっても、まだ山には程遠いのです。

理三に合格する生徒でもやっていないことなんて、やったことよりも多くあるでしょう。

しかし、別に理三だけに限った話ではありませんが、彼ら彼女らが合格するのはなぜか。

落ちる原因が極端に少ないからだと思います。

落ちる要素が、他の受験生よりも圧倒的に少ない。

もちろんそういう生徒が運悪く落ちることもあるでしょうが、まれだと思います。

他の受験生と違うのはそこかと思います。

努力が足りなかった、その言葉で片付けるのは簡単ですが、果たしてそれで良いのか。

明らかに、自分の方が勉強量も上なのに、なんで勉強量が少ない奴が受かるのか。

もともと天才だったから?

そんなことはない。

落ちる原因が少ないのだ。

いろいろパラメーターはあるかと思います。

本番で動揺しないとか、計算ミスが圧倒的に少ないとか。

落ちる可能性の火をひとつずつ丁寧につぶしている。

自分には何が必要なのか自分が一番ちゃんと把握している。

そういう奴が合格するのかと思います。

もちろん結果を求めて、当落に固執して、ずっと信念を持ち続け、こだわれた人が合格するに相違ないでしょう。

しかしそれは結果論だと思います。

はい合格した、やれ不合格だった。

そんなことに振り回されているほうが落ちます。

一喜一憂。

その場の感情であれやこれや考える。

自分以外のものに流される。

そういう奴が落ちるんじゃないかと思います。

それも落ちる原因の一つかなと思います。

浪人が決まった時、親も怒りますし、世間体も悪くなりますし。

私の場合人権がなくなりました。

親に「はい」としか言えなくなるのです。

どんなに理不尽なことを要求されても「はい」としか言えない。

仕方ないかなと思いました。

だって、その程度の人間なんですもん。

正直浪人する前は自分の可能性や能力を過信していたと思います。

自分は何にだってなれる、こんなに勉強できるんだという子供のような幻想を、いつの間にか抱いていたような気がします。

バカです。

どうしょうもないアホです。

自分で自分のことができない、自分の等身大の姿が捉えられていない、この世で一番分からなきゃいけないものが分かっていない人間が生きていけますか。

他人や他のことはわからないのは当たり前です。

この世界で、最も自分を理解できるのは自分しかいません。

自分以上に自分を理解できる人間はいないでしょう。

それすらわかっていない。

これはものすごく貧相なことだと思います。

そんな貧相でどうしょうもない私に降ってきた最後のチャンス。

それが浪人だったと思っています。

浪人があったからこそいまの私がある。

調子に乗っていた自分に終止符を打つことができたのです。

勉強でも同じことです。

習ったことの中で、ここがわからないポイントが的確にわかるか。

それってとても重要なことだと思いますが、現役の時はその精度が恐ろしく悪かったように思います。

自分のことすら正確にわからない、いま考えると恐ろしいなと思います。

 

心構え。

難しいですが、乱されないということですか。

親が何を言おうと、模試の結果が何を言おうと、先生が何を言おうと、それで乱されてはいけない。

問題が解けなかった、「悔しい」と思ってはいけない。

悔しいって思うことに脳の数%を使ってしまっているのです。

もったいない。

非常にもったいない。

その数%で解法が思いつくかもしれないのに。

新しく何かが覚えられるかもしれないのに。

自分で可能性を消している。

非常にもったいない。

解けなかった問題はただ解けなかっただけなんです。

それ以上でもそれ以下でもない。

自分が知らなかったことなら覚えればいい。

わからないなら友達、先生に聞けばいい。

捨てるなら捨てるで全然構わない。

その問題が入試に出る確率は恐ろしく低いのだから。

そうやってやることは山ほどみつかるはずです。

なのに、一喜一憂して「あー解けなかった」「あーわかんねぇ」「あー悔しい」、その時間がもうすでにもったいない。

自分で落ちる原因の一つである、時間の無駄な消費を作ってしまったわけです。

そうやって落ちる原因を小さなところから積み重ねているやつが合格できましょうか。

出来るわけがありません。

当たり前です。

自分を落とすのは、試験じゃない。自分だ。

親に言われた、先生が言った、試験が難しかった、会場が寒かったなど、これは落ちる原因ですか。

当落への影響がものすごーく小さいパラメーターの一つでしょう。

落ちない人は、影響の大きいパラメーターの効果を最大に発揮してくる。

そりゃそうだ。それのほうが受験で有利だから。

影響の細かいパラメーターはよく目につきます。

なぜか。

自分から遠いから客観視しやすいのです。

自分に一番近いものが、一番影響を及ぼしてきます。

それは何か。

自分です。

自分が当落のカギを握っている。

もっと言えば自分の心が当落を握っている。

脳の中に頑張ってためこんだ知識じゃない。

答案を書かまいと思えば、白紙提出もできるのです。

自分の心さえ制することができれば、受験勉強も試験もうまく行くことでしょう。

だからこそ私は「乱されない」ということを挙げたいかなと思います。

心なんて構える必要はない。

自分がそこにあるだけ。自分がそこにいるだけ。

もちろん、こんな浪人しただけの人が書いた文章を見て、乱されないってことからスタートかと思います。

いつまでも他人の評価値を借りてきて物事を判断すれば良い時代は、高校生でおしまい。

自分です。

自分がすべてなのです。

自分の心がすべてなのです。

他人の言うこと、評価、そういうもの、そういう社会が作り出した価値観に惑わされ、あっちにいったりこっちにいったり。

それが一番阿呆です。

そういう奴が一生クズなのです。

精神的に社会的弱者なのです。

誰かの操り人形は今日でおしまい。

自分で道を切り開く。

だだひたすらに勉強をして、知識を血と骨にする。

こんな高尚なこと、もうちょっと年齢が行くとご飯を食べるために働かなければなりませんから、なかなか体験できません。

勉強という尊い行いを、修行のように積み重ねる。

高い精神性が求められる行為でしょう。

途中であきらめる人がいるのも納得できます。

それくらい難しいことなのです。

難しいことが成せた人間には、それなりの価値が生まれます。

難しいからこそやる価値があるのですから。

他の人が出来ないからこそ、諦めやすいからこそ、やる意味があるのです。

 

尽力を。