芥川龍之介の「好人物は何よりも先に……」について
好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのに好い。第二に不平を訴えるのに好い。第三に――いてもいないでも好い。*1
というものがあります。
これについて個人的な解釈を述べたいと思います。
はじめに
まず、「好人物」とは何か。
手元の辞書で引いてみると
気だてのよい人。お人よし。結構人。*2
とあります。
恐らく作者はこの意味で書いたのだと思われます。
いい人というのは、プラスのことを言うのも、マイナスのことを言うのも良い。
「いてもいないでも好い」の解釈が難しいところですが、そのまま読めば「そういう友人を持っていても持っていなくてもいい」か「今この場にいても良いし、いなくても良い」のどちらかかと思います。
前者なのか、後者なのか。
実はこの言葉には少し前の部分があって
女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。
というものです。
「女は〜夫に」「男は〜友だちに」そして「神に似た」というところを考えると前者かと思います。
夫を持っても持たなくてもいい、友だちはいてもいなくてもいい、(自分にとっての)神はいてもいなくてもいい、と述べたかったのかなと取るのが妥当かなと思います。
ここまで考えて、原文の意味を抑えたところで、あえて後者の考え方で考えて解釈し、“友だち”の考え方を得たいと思います。
個人的な解釈
「好人物」を辞書の意味ではなく、自分がとっても良いと思える人、簡単にいえば良い友だちと捉えることにします。
「いてもいないでも好い」という言葉を、「今この場にいても良いし、いなくても良い」に近い解釈で、「(いつも身近に)いてもいないでも良い」と解釈することにします。
こうみると「よい人というのはいつも身近にいてもいなくてもいい」となります。
こう解釈するとどうでしょう。
真に自分にとって“良い人”、もっとざっくばらんに言えば“合う人”というのは、いつも身近にいようとも、たとえ身近にいなくても良好な関係性が保てる人なのでしょう。
少し時間をおいてから会っても前の会話の続きができる。
そんな友人が欲しいものです。
もう一度原文
好人物
女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。
又
好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのに好い。第二に不平を訴えるのに好い。第三に――いてもいないでも好い。
名言やことわざはそれそのままでも面白いですが、解釈を変えてみるのも面白いかもしれないと思った瞬間でした。