私の悟り
- 吹奏楽の「曲想」から着想を得て、プラトンのイデア的発想に至ったことがある。
- しかし、イデアでは不十分で、アリストテレス的発想を抱くもまだ足りなくて西田幾多郎の考えと出会う。
- それによって考えた私の"悟り"とはなにか、その方法、きっかけ理由について思うところをまとめてみた。
プラトンの言うイデアについて、イデア論を聞くより前に同じようなものを考えたことがある。
曲のイメージ
吹奏楽ではこれからやろうとする曲を聞いて曲のイメージを掴むことがある。
この曲はこんな情景が思い浮かぶねと話し合うことがあったりする。
これを我々は「曲想」と言っている。
少しマニアックな話になるが、「The Seventh Night of July」なら「星が流れていく音」とか、「天馬の道」なら「馬が疾走する様子」「雲の切れ間から光が差す様子」などである。
その時に、何も打ち合わせしていないのに各人が共通したイメージや色を持つことがある。
ここで一つの疑問が生まれる。
なぜ、お互いに生まれて初めて聞いた曲にも関わらず同じようなイメージを持つことができるのか。
なぜ、同じようなことを思い浮かべているのか。
なぜ、聞いただけで想像が可能なのか。
人によっては音楽のここが面白いと言う人もいるようで。
プラトン的発想
私は思った。
もしかするとこの世には抽象的な概念を表すまだ数式化されていない方程式があって、それの束縛力を受けたものに対して人間はその概念を感じるのではないかと。
つまり、例えば「美しい」なら「美しい」という方程式があって、それに沿ってかかれた曲は誰が聞いても「美しい」と感じるのではないかと。
例えば「恐怖」という方程式があって、それに準拠した森があったとする。
その森をたとえ初めて見たとしても人間はどこかでその「恐怖(の定理)」を感じて恐怖を感じているのではないか。
では人間はいつその方程式を知るのか。
赤ちゃんに恐怖の森を見せた時、泣くのはなぜだろう。
なぜ、この森を不快だと認識できるのだろう。
ここで私は、恐らく生まれる前から知っているのではないかという発想を持った。
生まれる前に見たことがあるが、言語を持たない、明確な思考が出来ない状態で生まれてくるためにその表現が的確にはできない。
今から考えればこれはプラトンのイデアの発想であったなと思う。
我々の魂は、かつて天上の世界にいてイデアだけを見て暮らしていたのだが、その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を渡ったため、以前は見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。だが、この世界でイデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていたイデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる*1
アリストテレス的発想
ここまで考えて私はまた疑問を持った。
それは果たして本当だろうかと。
人間は経験的に考えていることを、理想化しているのではないかと。
さきほどの森の例でいうと、何種類か森を見てきて、うっそうとしているものを抽象的に怖い森だと思うことで、恐怖の定理が完成していくのではないかと。
自然の中に存在する共通した性質を経験的に統合しているからこそ、その束縛力が生まれていくのではないかと。
確かに、今生まれたばかりの赤ちゃんに対して怖い森を見せても真顔なんじゃないかと思った。
今から考えればこれはアリストテレス的発想だなと思った。
ここまでのまとめ
プラトン的発想は人間の中にはもうすべての方程式が詰まっていて、それを自然に適応している考え方だ。
方程式の条件を満たした自然を見た場合にその抽象的な概念を感じる。
アリストテレス的発想は自然の中に方程式に準拠したものがたくさんあって、それをたくさん見ることで、その方程式が明らかになっていくのだと。
真逆だ。
余談だがアリストテレスはまさに物理だなと思った。
実験や観測観察をもとにして、そこにある関係を見出す。
何がしかの具体的なイメージをそこに当てはめて、そういう関係があるのではないかと想像し、数式にまとめる。
物理チックだなと思った。
新たな疑問
ここまで考えて私は不十分さを感じていた。
どちらの考え方も分かるが、どこか違和感があった。
初見の曲というのがネックだった。
なぜ初見の曲で同じ曲想を持つのか。
経験的に似た曲を聞いたことがあったり、似た絵や映像や実際の自然を見たことがあって、それを初めてのものに対して当てはめているのではないかと。(アリストテレス)
しかし、なぜ今まで思ったことがないイメージが心に浮かぶのだろうと。
そんな膨大な量の方程式が人間には詰まっているのかと。
過去の人間と未来の人間で差はでないのか。
時代によって変わっていく概念や流行をどう説明すればいいのか。
「美人」などはまさにそうで、平安と現代、美人に当てはまる人は180度違っている。
プラトン的に両者とも美人方程式に従っているとしよう。
美人方程式に従っているのだから、平安の人は平安美人を見て美人だと思い、現代の人は現代美人を見て美人だと思うだろう。
逆はどうか。
平安の人に現代美人を見せたら美人だとは言わないだろう。
現代の人に平安美人を見せても美人だと言わないだろう。
これはやっぱりアリストテレスが言った方が正しいのか…。
確かに、時代や歴史や環境など、それによって人間が作ったものを方程式にしているだけなんじゃないか。
個々の社会において多くの人が賛同するものを、"共通"と称しているだけなんじゃないのか。
でも、それの最初はどうやって起こるのか。
なぜ多数派と少数派が生まれるのか。
みんながみんな同じ論理を見せられて納得しないのはなぜか。
やっぱりプラトンが言ったように人間の中にもともとあるものではないか…。
それが表面化しているだけじゃないのか。
人によっては思い出せているイデアと思い出せていないイデアがあって、そこに差が出ているだけではないか…。
答えが出ないのは当たり前だ。
二元論なんだからどちらかに合わせれば片方が破たんするに決まっている。
二つを内包する新しい発想が必要だ。
西田幾多郎的発想
そこで私は、もしかして人間と自然、中から外、外から中と言っているが、もしかして両者は本質的に同じものではないかと考えた。
人間が方程式そのもの、自然も方程式そのものではないかと。
人間も方程式も自然も、ほんとは同じものなのではないかと。
ここで西田幾多郎に出会う。
人は皆宇宙に一定不変の理なるものあって、万物はこれによりて成立すると信じている。この理とは万物の統一力であって兼ねて意識内面の統一力である、理は物や心によって所持せられるのではなく、理が物心を成立せしむるのである。理は独立依存であって、時間、空間、人によって異なることなく、顕滅用不用によりて変ぜざるものである。……理そのものは創作的であって、我々はこれになりきりこれに即して働くことができるが、これを意識の対象として見ことのできないものである。*2
と述べている。
これだと思った。
根源的統一力である理(ことわり)が人間にも自然にも作用しているのだと。
これなら初見の曲を聞いたときに曲想が一致することも説明がつく。
ウパニシャッドの思想
ウパニシャッドとは
今のヒンドゥー教のもとになったインドの古い宗教であるバラモン教には、ヴェーダ(ベーダ)という聖典があって、その最後の部分に哲学的なことをまとめたウパニシャッドというものがある。
そこには「梵我一如」(ぼんがいちにょ)という発想がある。
これはさきほどの西田幾多郎の思想とかなり近いもので、
梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。*4
という考え方である。
偉そうに言えばこいつらもかという感じである。
"悟り"
この根本原理を垣間見るのが日常の"悟り"ではないかと思う。
西田はこれを"感得"と言った。
悟りについて日常生活とは遠いものか近いものかという議論や、悟りの本質とはという考え方も多数ある。
その悟りではなく、ここでは仏教の言葉を借りて、私が何度か経験した思考が急激に加速して歯車が自然とかみ合う、言葉にする前に答えがポンと出て来る何とも言えないあの不思議な感覚を指して"悟り"と呼ぶことにする。
私の個人的な経験で言えば、美術館や博物館に行って作品を見たり、一生懸命悩んだり、ぼーっとしたり、いろいろ読んだり見たり、たくさんの経験をして、(自分では何が要るのかわからないが)必要な要素が全部そろった時に、自然と答えが出て来るのではないかと思う。
見聞きしたものが思考の泉に溶けて行って、そうやっていろんな経験をして要素を増やしていってかき混ぜて、必要な時に答えがポンと出て来る。
私は"悟り"を得た時、光が差して一気に目の前が開ける感覚を受ける。
悩みが一気になくなって、安心感を得る。
そりゃそうだ。人間はわからないから恐怖なのであり、その恐怖は想像することによって生まれるのだから。
(分からないから想像し、想像するから恐怖を感じる。つまり、分からないことは恐怖である。恐怖は想像によって生じ、その想像は分からないことが基になっている)
「人は想像するから恐ろしいんだ……想像は全ての感情の源。分からないからこそ人は想像してしまう」*5
考える
私は苦しく考え抜くことによって、思考の泉に栄養を与え続けている。
いつか書いた女子力に関する考察 - ねいぴあのブログのように。
女子力に関する考察は一つの例に過ぎない。
「生とは」「死とは」「人生とは」という重たいお題から、「恋愛とは」「アイドルとは」「音楽とは」と俗っぽいことまで、いろんなことを逐一考えて、自分の中に今のところ矛盾のない方程式を何本か持っている。
そのたびに思考の泉に栄養を与え続けて、答え(方程式)がポンと出てくる経験を何度もした。
もちろんパラダイムシフトが起こることもある。
そのたびに方程式がより抽象的なものに変化しているような気がする。
この総合的な流れを私は"(私の)哲学"だと思っている。
根源的統一力、西田が理(ことわり)と呼んだそれを垣間見ること、それこそが哲学だと思っている。
私にとってはこの考えることこそ哲学であり、私が存在するのはこの考えることによってであり、哲学=考えること=生きているということだと思っている。
思い返すと小学校六年生から初め、中学三年生の時くらいから本格的に苦しく考え抜くことを趣味にしている。
哲学の動機
どうして私が哲学するに至ったかを振り返ってみるとそれは悲しみであると思う。
祖母が怪我をし、入院したことでボケた。認知症だ。
人が変わり、それへの対応で家庭の環境が激変。家が崩壊しかけた。
小学校六年の私の心はその環境変化に耐えられず、中学校に入っても環境に大きな変化がなかったため、衝動的に学校の備品を破壊したり、いきなり泣き出したり叫んだり、暴言を吐いたり、いきなり人を殴ったり今から考えると恐ろしいことを繰り返していたなと思う。
申し訳なさもあるが、当時の幼い私にはどうにもならなかったと思う。
親もクラスメイトも先生も、どうすることもできなかったと思う。
もちろん、クラスメイトは私を避ける。家に帰っても地獄。祖父や両親は私以上に大変だったと思う。
私が何をしても祖母は変わらず、乱れた心を制することもできない。
それによって日常生活も、勉強も、部活動もままならない。
何をやってもダメな気がしたし、何よりやる気も起らなかった。
無気力、虚脱感から抜け出せず、たくさんの矛盾を抱えて絶望の日々を送るしかなかった。
動くと、行動すると大半の場合状況が悪化すると学習した私は考えまくった。
辛く悲しい思考を幾度となく繰り返し、自問自答をして答えのない出口のない海をさまよった。
西田は
哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。*6
と言ったがあれは本当だと思う。
実際に私がそうであったから。
彼の方がかなりしんどい経験をしていて、見ていて辛くなってしまうが。
哲学する人
同年代で私でいうところの哲学している人、俗っぽい言葉でいうと他の人に比べてしっかりしているなとか自立しているかもと思う人を見ると少し同情してしまう。
こいつも同じかと。
過去に深い悲しみを抱えているのかと思うと寂しい気持ちになるとともに、親近感も覚える。
類は友を呼ぶで、私の周りには、私でいうところの哲学している人が多い気がする。
哲学する理由
理由なんてなくて、必然的にそうなっているだけなのだと思う。
よく私の哲学的発言を見て「よくお前はそんなことが言えるな」「お前はそんなに偉いのか」「何様のつもりなんだ」と言われることがある。
私は世の中に対する批判を述べたいわけではない。
出来た人間でないことは自分がよく分かっている。
なのになぜ、そんなことを言うか。
それは私にも本当は分かっていないと思う。
ありのままを感じているだけで、着想そのものは何も考えていないのだ。
私の"純粋経験"を述べているだけで、それによって世界が変わって欲しいなんてこれっぽちも思っていない。
むしろ逆で、
「あなたの行動がほとんど無意味であったとしても、それでもあなたはしなくてはならない。それは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」(マハトマ・ガンジー)
に近いかもしれない。
哲学、考えることが私が生きていることであり、目の前の世界を感じ取ることこそ、人の人生かなと思っている。
*1:Wikipediaの「イデア」に書かれた引用文の引用 イデア - Wikipedia
*3:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ウパニシャッド(ウパニシャッド)とは - コトバンク