私は媒介変数表示<音楽編>
音楽と自分の関係性やあり方についてを考えてみたい。
緒言
小学校6年生の時に吹奏楽に出会った私は、中学校1年生から吹奏楽を始めた。
(小5~6でトランペットをやったこともあるが)中学校1年からパートはパーカッション(打楽器)一筋。
大学2年生になった今も懲りずにプレイヤーとして音楽を続けている。
人生の早い段階において、自分の肌に合ったものを見つけられた偶然に、そして今日まで継続できている幸せに感謝したい。
信条
「私は小さな音楽家である」
私は作曲家や編曲家やプロの演奏家、音大で音楽を勉強している人などの一般に音楽家と呼ばれる人には到底かなわない。
演奏技術も知識も及ばない。
しかし、音楽というのは私のような素人がやってはいけないわけではないし、音楽の歴史が音楽家だけの力で紡がれてきたわけではない。
感動と上手⇔下手は必ずしも比例するわけではない。
音楽を聞いたとき、自分の中でプレイヤーの血が騒ぐ。
特に誰かが演奏する姿を間近で見た時、自分もやりたい、聞いているだけではダメだという思いが募る。
聞くだけでは満足できない自分を感じた時、「私は“小さな音楽家”なんだ」と思う。
しかし、それは「自己表現」の意識とは全く異なる。(後述)
演奏の際の音楽観
自分が音楽を奏でる時に、作曲者と楽譜、自分、聞き手の関係性について考えることがある。
私の中でとても重要なのは、演奏するとき「無」であるということだ。
自分を削って削って、なくしていく作業、これが練習だと思っている。
完成した形や理想の音や響きは作曲者の中にあって、それを伝える“お手紙”が楽譜。
作曲者の頭に流れる曲を、“お手紙”をもとに読み取って楽器を演奏し、音として聞き手にお届けする媒介が私。
私は触媒や酵素みたいなもので、作曲者と聞き手を繋いでいるだけ。
そこに私の個性は存在しないし、存在してはならないと思っている。
もちろん、音の表現をするために自分の体格や手に合わせた奏法を選んだり、自分なりの工夫や演奏感覚を信頼することはあるだろう。
しかし、出す音はあくまでお手紙に準拠していなければならない。
精神性を高めて、目的とした形を目指して、出来るだけブレなくその音をあてる。
そこにどうしても残ってしまった細かいブレ、通常の意識では除ききれない微妙な揺れ、それこそが個性であると思う。
自然な奏法と音楽の流れに身を任せたとき、取り除ききれなかったわずかほんのちょっとの雑味。
これこそが、人間の力ではどうにもならなかった領域で、これが個性の発現だと思う。
完ぺきな演奏は感動しない
先述のように完ぺきにはどうしてもならないのだ。
完ぺきにすると、それはもう音楽ではなくなる。
(完ぺきだとしか思えない、人間がやったとは到底思えないくらい素晴らしい演奏は数多く存在する。)
人間の不完全さをこういうところで感じる。
だが、それは悪いことではなくて、それが人間の個性というか、人間の個とはそういうものであると考えている。
"超自然"、自然を超えた領域に存在するノイズ、ブレ、これこそが旨みなのだ。
証拠に、愛・地球博でトランペットの自動演奏ロボットが登場した。
人間が使用する楽器をそのまま利用して演奏できる凄まじいロボットだ。
音は完ぺきだと言わざるを得ない。
高い音から低い音まで、あれだけきれいに音に当てられる人間はいないのではなかろうか。
ビブラートもタンギングもタイミングも狂いはない。
少なくとも人間の耳では捉えきれない。
しかし、私は音楽性という意味で全く感動しなかった。(もちろん技術力には感動した。)
なぜか。
私が言う"個性"(=雑味)がないからだ。
もし、誰がどうやって演奏しても同じ音が鳴る楽器があったとするなら、深みはなく、音に対する感動もないのでないかと思う。
矛盾
完ぺきな演奏を目指しているのに、完ぺきであるはずの演奏が感動しない。
個性をなくしていく作業と個性が感動に繋がるという矛盾がある。
これが、音楽の本質なのかもしれない。
もし、仮に、何か音楽の理論が確立されていて、それが完ぺきで矛盾や例外なく存在しているとしたら、それを基に音楽は成り立つはずであるし、もしかすると音楽はそれ以上発展しないのかもしれない。
解が見つかっていないからこそ、人間は追い求めるのであって、解が分かっているものをあえて求めようとはしない。
これは、音楽に関して解が見つからないのではなく解がないのではないかと思う。
その解をなくしている矛盾の一つが私が思っているこれではないかと思う。
変化
時々刻々と自分自身のスタイルを変化させ続けなければならないと思う。
時間が変化しているのだから当たり前のことだ。
いくら、楽譜が同じであっても、5年前にした演奏と今日の演奏、技術力が変わっていなくてもやることは違う。
ここにも媒介変数表示があると思う。
作曲者の楽譜、聞き手が受け取るもの、それは変わらなくても、自分の表現方法は変化していく。
時代にそった形にしていく。
聞く相手に、読み解く相手にfitした形にしていく。
変化における個と工夫
もちろん聞き手が言うことに従うという意味ではない。
お客さんがいる以上、お客様のことは意識するが、あくまで自分の道は通す。
そこにどんな工夫を持ってくるかを考えることが面白くもあり、また頭を使うことでもある。
それが個性ではないか、と指摘されたこともあるが、少なくとも私はその工夫が個性だとは思わない。
他の人がまだやっていないことがすべて個性だとは思わないからだ。
ただ単に珍しくて世界で初めてやったことが果たして個性とイコールに出来るかと言われればそうではない。
他人の工夫をコピーすることもすべてが良くないことかと言われればそうではないと思う。
しかし、全部が良いことかと問われれば、そうではない。
やはり、そこに絶妙なバランスがあると感じている。
純度100%のオリジナルな工夫は存在しえないと思う。
もちろん自分が持つ音は世界で一つであるからオリジナルではあるが、工夫が完全なるオリジナルということはもうこの現代では存在しないのではないかと思う。
自分の世界に一つの音、それを用いた工夫、他人のコピー、組み合わせ、いろんな要素が入り混じって一つの媒介変数表示が出来上がる。
そんな感覚を感じている。
まとめ
趣味で音楽をやり始めて約10年。
作曲者と聞き手、その間に存在する演奏者。
そのあり方についてようやく入り口が見えてきたような気がした。
そこには個性と、工夫と、人間では制御しきれない自然を超えた精神性があって、それを今のように感じられるようになったもつい最近のことである。
毎度同じことをやるだけでは成長しない。
同じことをやっているように見える人は、実は日々ちょっとづづ進化していて、それが同じ状態に見えるからすごいのだ。
こうして考えながら音楽をやらないと途端に腕が落ちていくと思う。
これからも考えて、哲学しながら音楽と共に歩んでいければ幸せだなと感じている。