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ねいぴあの世迷い言

つれづれなるまゝに、をりをり、ぱそこんにむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

ジェンダー論に関連して

ねいぴあ哲学

いつも通り長い一人語りです。

自分の性に関する話です。*1

はじめに注意とお願い

最初に断っておきたいのは、ジェンダーに関する専門家ではないので、用語など間違って用いている場合があるかもしれません。コメントなどでご指摘頂けると助かります。

加えてこの記事は性を定義するものではありません。あくまで筆者の個人的な思想や筆者自身の性に対して考えていることについて記述しているだけです。気をつけて筆を進めますが、考え方の違いは存在するかもしれませんので、その点をご容赦の上お読みください。

主観で語るので「女装」と言いますが、「異性装」だと解釈してください。

性の種類

様々種類があって、千差万別だと思います。各種用語もありますが、それでは定義できない性別がたくさんあると思いますので、極力自分の言葉で語りたいと思っています。

性を考えるには3つ項目

  1. 恋愛対象
  2. 自分の(精神的な)性別をどう捉えているか
  3. からだの性別はどうか

があると思っています。

筆者を例に取ると、

  1. 筆者はまず、人間に対していわゆる“恋愛感情”というものを抱いたことがあります。辞書や他の人の「恋愛感情」のそれとは少し違うかもしれませんが、筆者自身の認識としてそうということです。加えて、その“恋愛感情”を抱いた人はこれまで女の子だけです。(今後は誰にもわからない。)
  2. 筆者の性自認は男です。
  3. 筆者のからだの性別は男です。

という感じです。

性的な接触を求めるかどうかなど、もう少し細かいかと思いますが、主にこれの組み合わせで用語が決定されるという印象です。

女装

筆者は普段の生活で女装をしません。女装をして日常生活を過ごしていません。あくまで許された場でしかやりません。加えて、その際に「女装をしている」という感覚があまりありません。多くの場合女の子が着ているようなかわいい服を着たり、コスプレをして、筆者がただ女の子の服を着用しているという感覚です。

これは女装、つまり女を装うという言葉そのままかもしれませんし、結果的に装っているかもしれませんが、どうも“装う”という感覚が稀有です。もちろん、ウィッグも被りますし化粧もしますが、どうも装うというよりただ着ているだけのような感覚です。中身はいつもと変わりないという感覚です。

普段の生活やこの記事においてそれをいちいち説明するのは冗長なので「女装をする」と言います。

ミスコンに出る意味

語弊がありますが、筆者は女装が趣味ではありません。

あくまで「男だけでミスコン」をやるというジョークを楽しみ、人を楽しませるための手段です。

別に女装がしたいためにミスコンに出場しているのではなく、ミスコンに出場するために女装をしています。

これは「(女性)性の消費」と捉えられるかもしれませんが、その自覚はあまりありません。

女装が許され、それを媒介としたステージを楽しみたい人が見て楽しみ、筆者自身も楽しむという、エンターテイメントを享受する感覚です。

性癖

いわゆる「女装癖」はありません。つまり、女装をすることで性的興奮を覚えたことがありません。普段、多く男の子が着る服を着ているときのように、着ても感覚は変わりません。

もちろん、スカートを着用して「いつもよりスースーするな」みたいなことを思うことはありますが、それは新しい服を買った時の慣れない感じと一緒です。

ジェンダー

まず、筆者は「男の子だから」「女の子だから」という考えが嫌いではありません。

細かい性別はあるものの、多くの人間のからだの性別が男の子と女の子で大別される以上、男の子と女の子という概念は存在するものだと思います。インターセックスと呼ばれる人の存在や、それに区別されることを嫌う人の存在も認知しています。全体主義的考え方は良くないとは思いますが、現状の社会と歴史的経緯を考え、ここでは男の子と女の子という概念の存在を認めたいと思います。

よって善悪ではなく「男の子らしさ」「女の子らしさ」は存在するものだと思います。もちろん、「らしさ」の強要で嫌に感じることがあってはいけないと思います。しかし、「男の子らしさ」「女の子らしさ」という考え方を認めないほうがハイリスクだと思うので、筆者は筆者なりに受け入れています。

それより筆者が最も大切だと考えていることは「男の子らしさ」と「女の子らしさ」は恋愛対象や性自認、からだの性別によらないということです。恋愛対象や性自認やからだの性別がなんであれ「男の子らしさ」と「女の子らしさ」は持ってもいいし、持たなくてもいいと思っています。

加えて「男は―」「女は―」という考え方の善悪が議論になることがありますが、大切なのはそれを自分がいいと思うか嫌だと思うかだと考えています。

例えば「男だから泣くな」「女だから料理ぐらいは」と言われて、「確かに」と思う人もいれば、「それは違う」と思う人もいるでしょう。人それぞれです。そこは個人の感性なので全員正しいです。それをお互いに認知できることが一番大切かと思います。つまり「自分は確かにって思うけど、そうじゃない人もいるかも。自分の感覚も正しいけど、違うって思う人の感覚も正しい」(またはその逆)という感じです。

これで対立するほうが無益であると考えています。

筆者の「らしさ」

以前は筆者の中に存在する「女の子らしさ」を否定して生きていました。ジェンダーの考えに抑圧され「男の子なのにどうして女の子らしさを持っているのだろう」「男の子なのに女の子らしさを持つのはおかしい」と“自然に”思っていました。

今は違います。「性自認が男でからだが男でも『女の子らしさ』を持ち合わせていていいんだ」と気が付いた瞬間に少し楽になりました。筆者に「現状以上に女の子らしさを持ちたい」という感覚はないので、筆者の日常生活や精神に支障のない程度に「女の子らしさ」を、持ちたいレベルで持つようにしています。その辺りはうまく折り合いを付けられていると考えています。

女装外出

基本的にしません。なぜなら、まだ社会的に女装は広く受け入れられているとは言いづらいからです。

別に私は「女装をすること」が主目的ではないので、その社会的なものを超えて、女装外出する必然性がないこともあります。加えて、飲食店などだと他のお客様に迷惑がかかることがあります。筆者が奇異の目で見られることは気にしないのですが、他の人へ普段の姿以上に迷惑をかける(可能性のあることをする)必然性がないのです。

もちろん、他の人はその人なりの必然性があることをしていると思いますし、それらは筆者なりに受け入れているつもりです。昔は、どう捉えていいのか分からない部分がありましたが、女装をし始めてから必然性を知り、違和感がかなり薄れました。

どうしてジェンダーを細かく考えるのか

筆者には恋愛対象が性別に限らず、性自認が男で、からだの性別が女の友達がいます。心から理解し合える友です。

その人の人生を知っているだけに、どうしても適当には女装ができません。例えそれがミスコンという目的のための手段であっても、軽く扱うことができないのです。ちゃんと自分なりの解釈と定義と信念を持って女装がしたい。デリケートな問題ですが多少の注意を払いさえすれば、あるいは何も考えずライトに女装をすることもできるのでしょう。しかし筆者にそれはできません。

女装指示厨

嫌いです。女装自体、筆者が好きでやっていることなので、そもそも誰かに指図される筋合いはないです。筆者の女装を見たくなければ見なければいい話です。誰かに強制的に女装をしている姿や写真を見せつけたことはないので、テレビのチャンネル同様、ご自身で選んでくださいという感覚です。

「〜をしたらもっとかわいくなれるのに」みたいなものも基本的には腹が立ちます。そんなこと知らないです。筆者がかわいいと思うことをやるだけです。もちろん、評価されるミスコンという場に立つことがあるので、他人が認めるものを作っていかないといけないのはごもっともですが、負けたら負けたで筆者の責任ですし、法律や公共良俗を守っている限り、筆者の自由にさせてください。

「男だとバレバレ」「手が―」「眉が―」「化粧が―」「服装が―」「誰々のほうがかわいい」それがどうしたんですか。それがわからずに女装をやっていると思うんですか。そもそも、他人に媚びるためではなく、筆者が好きなことをやっているだけです。これらを言ってくる人が男性の場合は、ミスコン企画写真部門でグランプリとってから言ってください。これらを言ってくる人が女性の場合は、ミスコンという男性の中で争う、つまり女性と争う場を主戦場としていないのでお帰りください。それをいちいち筆者に伝えてくる必然性はないし、女装を理由にしたただの嫌がらせです。他人のジェンダー感覚の中のルールで筆者を変えようとしたり、虐げて満足するような行為は苦手です。

かわいいもの好き

普段使いにするか、実際買うかどうかは別問題として、小物などかわいいものは好きです。

筆者の化粧ポーチです。左側はネットで見て一目惚れし、吉祥寺へ買いに行きました。

前述のように自分の中の「女の子らしさ」を認め、「別にかわいいものが好きでもいいんだ」と気がついたので、普段以上に迷惑のかからない範囲で持ち物などを楽しみたいと思っています。

性自認が男である論拠

一時期、これで悩んでいたことがあります。自分が男であるという感覚はどう証明すればよいのかわからなくなりました。

自分の精神的な性別は果たして本当に男なのか。例えば男性に恋をするなど、特定の原因があったわけではないのですが、ふと考え始めて、珍しく解が出づらい問いでした。

少し悩んで、当たり前かもしれませんが自分なりに納得する答えが出ました。

これまでの人生でジェンダーの話題に触れることはありましたし、それで苦心する友達もいます。しかし、その際、自分の性別を疑うことがありませんでした。つまり、自分が「男だ」と思ったらそれは男で良いんだということです。これから先はどうなるかわかりません。その感覚が変化するかもしれませんし、変化しないかもしれません。少なくともこれまでと今は自分の性を男だと捉えています。それが自分なりの答えなのだと気が付きました。

結論

「性別を二元論的に分けきることは不可能」

さきほどの「女の子らしさ」の話にも通じますが、性別に関して筆者は個人個人の感覚が「正しい」という考えを持っています。

もちろん、さっき「男の子らしさ」と「女の子らしさ」の存在を認めましたから、どちらかに分けて考えることが多いかもしれません。しかし、「どちらにも属さないこと」もあると思います。

なので、自分の恋愛対象や性自認は自分が思った感覚、例えば「男の子だな」「女の子だな」「どちらでもないな」「男の子に寄った女の子かな」「女の子に寄った女の子かな」「どちらかと言えばこちらかな」「半々かな」など、どれでも大正解だと思います。

それをお互いに知り、認め合える、そういう人になりたいです。

 

最後にもう一度述べますが、筆者は恋愛対象が(今までと今は)女の子だけで、性自認は男で、からだの性別は男です。

 

以上。

*1:ポリティカルな話ではありません。