ねいぴあの世迷い言

つれづれなるまゝに、をりをり、ぱそこんにむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

「モテそう」は“見下しワード”

筆者は「モテそう」と言われると気分が悪くなります。

その原因を考察しました。

なぜ“見下しワード”なのか

音楽の話を例に出します。

自分ができることの範囲で他の人が演奏を行っていても何をやっているかわかりますが、自分のできることを超えた範囲で他の人が演奏を行っていても何をやっているかすらわからないことがあります。

つまり、人間は自分の持っている技術や経験してきたことであれば、認識でき、判定が可能になります。

実際にモテるのかモテないのかは別として、「モテそう」と判定を下している時点で、相手は筆者のことを認識でき判定できると思っています。

つまり、相手は自分のほうがモテると思っている。

そもそも実際にモテている(と周囲が見て明らかに分かる)人に「モテそう」という言葉を使うでしょうか。

当たり前ですが(周囲が見て明らかに分かるくらい)「モテない」人にしか「モテそう」という言葉は使わないのです。

「モテない」人が「モテない」人を見下す

下に見るだけならまだしも、それをわざわざ伝えてきます。

上にいる自覚があるなら黙ってればいいものを、筆者を出汁に自分の優位性を主張するためだけに、一見ポジティブな言葉を使って遠回しに嫌味を言っています。

要は“マウント”を取りたいだけなのです。

本当にモテる人はモテない人を卑下する必要がありません。

なぜならモテるからです。だからノブレス・オブリージュが成立します。

つまり、「モテない」人が「モテない」人を見下している。

これはマイノリティ論に見られます。

マイノリティがメジャーに立ち向かう際、メジャーに何か作用するのではなく、さらなるマイノリティを虐げることで、さらなるマイノリティをマイノリティにし、自分はメジャーになろうとすることがあります。

これです。

それがモテない人の論理だとも気が付かずに、自分よりモテないと思った人を見下している。

自戒

こうやって「モテない」という言葉に縛られ、一喜一憂している筆者こそが「モテない」人の論理で動いている代表なのですがね。