ねいぴあの世迷い言

つれづれなるまゝに、をりをり、ぱそこんにむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

自己肯定できる人間と苦手な人間

自己肯定できる人と自己肯定が苦手な人がいます。

根拠のない推論ですが、その差は「小さいころに大事に育てられたかどうか」にあると考えています。

基本姿勢

人間には基本的なスタイル、姿勢があります。

物事の待ち受け方、受け身の型、構えとも呼ぶでしょう。

小さいころに大事に育てられた人間は自分をできる人間だと思う(ことができる)ようになるようです。

つまり自己肯定(自己陶酔)が基本の人間になります。

逆に小さいころに大事に育てられなかった人間は自分をできない人間だと思うようになるようです。

つまり自己否定(自己嫌悪)が基本の人間になります。

大事に育てられた人は基本姿勢が充足、満ち足りているのです。

大事に育てられなかった人は基本姿勢が不足、何かが足りないのです。

前者は自分自身を表す円がどんどん広がっていくイメージ、後者は理想とする自分像を表す円の欠落を埋めていくイメージ。

前者は物事を肯定的に捉えることが基本になり、後者は否定的に捉えることが基本になります。

つまり、前者は「ある」が基本原則、後者は「ない」が基本原則になるのです。

自分ルール

「自分で自分を認められる」「自分で自分を認められない」

この差はとても大きいように思います。

人間にとって最も強力な拘束力を持つものの一つは自分で作ったルールです。

自分で作ったルールは常に自分の中でループします。

自分自身でピグマリオン効果あるいはゴーレム効果を起こしているようなものですから、その効果は絶大です。

類は友を呼ぶ

自己肯定型の人間は自己肯定形の人間と、自己否定型の人間は自己否定型の人間としか真に仲良くなれません。

つまり、幸せな家庭に生まれた人間は幸せな家庭に生まれた人間と、不幸な家庭に生まれた人間は不幸な家庭に生まれた人間としか過ごすことができない。

むしろそれが自然状態なのかもしれません。

スタート地点

自分で自分を認められない人は自分で自分を認められるようになるまでにかなりの時間を要します。

自己評価が低いことは現状の社会で生きるには不利です。

現在の社会に適合するためには、どうしてもある程度以上の自己肯定ができる必要があるのです。

自己肯定のできる人間はその能力を獲得する必要はありませんが、自己肯定のできない人間はその能力を獲得する過程が必要になります。

スタート地点が違うのです。

最後に

以上がわかったからといって、自分を肯定できる方法はまだわかりません。

小さなテクニックはいくつか思いつきますが、万能普遍の決定的な解決策は見つかっていません。

もしかすると解はないのかもしれません。

人それぞれと言ってしまえばそれまでですが、きっとそういうことなのでしょう。

これまででわかったのはそこに横たわる事実。

少なくとも筆者が生きてきた人生においてはこの法則が非常によく当てはまると言わざるを得ない。

自信を持てる人間と持てない人間。

どこか心の支えがある人間とない人間。

自己を適切に評価できる人間と過小評価してしまう人間。

それは、幼少期、家庭に問題があったかどうかで決まっているのでしょう。

不幸にも問題を抱えた家庭に生まれた人間は自己肯定をするのに大変な時間がかかります。

むしろ、最初は自分を肯定するための人生になる。

ようやく自分自身を肯定できるようになったとき、新たな人生がスタートするのです。

少なくとも筆者はそう信じて生きています。

 

以上。