上杉鷹山の「成せばなる……」について
誰もが一度は聞いたことがあるであろう言葉
成せばなる
成さねばならぬ
何事も
成らぬは人の
について解説したいと思います。*2
上杉鷹山のとても有名な言葉です。
これについて説明をしたいと思います。
古語的解釈
古語において
「成す」はサ行四段活用の他動詞、
「成せば」の「ば」は接続助詞です。
「ば」は接続によって意味が変わる助詞です。
「未然形+ば」は順接の仮定条件、つまりまだ起こっていないことに対して用い「〜たら、〜なら、〜ならば」と現代語訳されます。
「已然形+ば」は順接の確定条件、つまり起こったことに対して用い「〜ので[原因]、〜から[理由]、〜と[偶然]」、または順接の恒常条件、つまり決まっていること、いつも起こることに対して用い「〜と(いつも〜する、決まっている)」と現代語訳されます。
今回の場合「成せ」は已然形ですからここの「成せば」は順接の確定条件、つまり「行ったら、行ったなら、行ったならば」と訳されることになります。
室町時代後期以降は「未然形+ば」の形が少なくなり、「已然形+ば」で順接の仮定条件を表すようになりました。
これが現代語の「仮定形+ば」の形となって残っています。
つまり、現代語では「成せば」は「行ったら(〜かもしれない)」と可能性の意味だと解釈されます。
もちろん、上杉鷹山が「已然形+ば」で順接の仮定条件を表した可能性もありますが、仮定条件を表したければ「未然形+ば」表現を使うでしょう。
しかも話し言葉ではなく、人に宛てた書状です。
仮定条件にしなかったのは、確定条件ではないかと思っています。
「成せば」「成さねば」「成らぬ」「成さぬ」と同じ言葉の使い分けをしたのは、単なる助詞の接続で自然と動詞を活用させたではなく、明確な意志があったと踏んでいます。
現代語訳
何事もやれば必ずできる
もしやらなければできない
できないのはまだやってないからである
考察と解釈
この言葉が述べているのは「やったらできるかもしれない」ではなく、「やれば必ずできます」ということを文法的に確認しました。
繰り返しになりますが「やったらできるかもしれない」と言いたかったのなら上杉鷹山は「成さばなる」としたはずです。
そうせず「成せばなる」自然としたのには理由があるはずです。
何かをするというのは原因を作る行為で、やれば必ず結果がついてくる、原因のない結果はないということを言いたかったのだと考えられます。
原因のない結果は存在しない。
そのことを上杉鷹山はよく分かっており、加えて、やればできることを知っていたからでないかと思われます。
かといって「できないうちはやったことに入らない」「やっているのに成果がでないのはやってるという思い込みだ」という浅い解釈でもないと感じます。
もっと素直で単純。
「やるとできる」のただそれだけだと思っています。
効率が悪かろうが、思ったように進まなかろうが、やった分だけできます。
加点方式の考え方を表しているのではないかと考えています。
工夫を重ねればその分だけちゃんと成果が出る。
何をやるかは難しい。
どんなことをやっても、後悔はつきものかもしれない。
それでも、やったらやった分はちゃんとできる。
それを知っていて上杉鷹山はそう書いたのではないでしょうか。
以上。
*1:[伝国の杜]米沢市上杉博物館/特別展「上杉鷹山 ~改革への道~」より引用
*2:専門分野ではないので素人解説です。