ねいぴあの世迷い言

つれづれなるまゝに、をりをり、ぱそこんにむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

なぜ電通大の女装ミスコンが素晴らしいと思うか、その理由について

はじめに

一言でいえば「大人の遊び」を感じたからである。

本職や本業はしっかりしているが遊ぶ時には本気で遊ぶ、そういう大人感を教えてくれた。

どこかにそういう感情は持ち合わせていたが、はっきり認識できたのは入江ミク総帥を見てからだと思う。

2010年、高校2年生~。

当時ネットで話題になっていた入江ミク総帥を知る。

大学の先生にはそう簡単になれるものではないということはおぼろげにも分かっていた。

最初は「大学の先生がやっていいんだ」と思った。

もちろん准教授がコスプレ趣味を持つことを否定しているわけではない。

それまでも大学の先生でレイヤーという方はいたと思うが、表にしっかり出してもいいものなんだと感じた。

大学の先生ってのはもう少し硬い勝手なイメージがあり、あまりそういうことはそんなにオープンにしない印象だったので、すごいなと思った。

だから特別何かあるってわけではないが、素晴らしい文化だと思った。

もちろんこれは入江准教授だけでなくて、他の先輩方もそうだ。

国立大学の学生で電通大は結構忙しいと聞いていたが、それでもこうして本気で遊んでいる。

本職・本業がしっかりした中身のちゃんとある人間が本気で遊ぶとこんなに楽しいんだ。

アニメやゲームその他を自分の慰みだけに使うのではなく、他者も楽しませてコンテンツへの愛情も表現する。

これはとても頭を使うことで、何よりそれを考えている時間がとても楽しいだろうなと思った。

笑いや楽しみや嬉しさなどのプラスの感情がたくさん詰まっているなと感じた。

これをやるためにはまず、中身のしっかりした人間にならなくてはならないと感じた。

高2までの私はどこかふらふらした口先だけの人間で、有限不実行がとても多かった。

地に足がついてないというか、勉強でも生活でもなんとなく学生生活を過ごしていたような気がする。

ただサブカルチャーが好きなだけ、それのみではアホなんだと感じた。

そこから人生の軌道が変わる。

私は人生に喝を入れたのだ。

しかし、周りに比べると時すでに遅し。

いつの間にか2011年、高校3年生になっていた。

それまで私よりも真面目に学習に取り組んできた、生活態度が良好で、心の扱いの上手な学生に敵わなかった。

当たり前だ、積み上げてきたものが違う。

結果高3の受験ではほぼ全敗。完全敗北だった。

 

2012年、浪人。

浪人してとある人に「中身がしっかりした人がやることは許される幅が広い」と言われた。

いろいろ思い返したが、まさにその通りだった。

ごく自然なことだった。

その辺の野球小僧とイチロー選手が同じことを言ったとしても、言葉の重みが全く違う。

高校のクラスで成績の一番良い天才はあからさまに教師から優遇されていた。(もっともそいつは、それを自慢することもなく、教師を皮肉るわけでもなく、偉そうな態度をとるわけでもなく、謙遜をするわけでもなく、それについて言及すらしない、そういうレベルで人間が出来ていた素晴らしいやつだったが。)

実績が違うのだから当たり前だ、しょうがないことだと思っていた。

だがしかし、それは実績のない者の言い訳に過ぎなかった。

イチロー選手やクラスの天才など、いろいろなことを思う中で入江准教授を思い出した。

これだ。

私は素晴らしいモデルを発見した。

中身がすごくしっかりしていて、本気で遊ぶ。

それを体現した存在に出会っていた。

私はひたすらに勉強した。

1本だけでも芯や軸のある、中身のある人間になるために。

そしてそれを他者に認めてもらうために。

 

例えば髪を染めるにしても、普通のやつが普通に染めたって普通なんだ。

実績がある人がやるとおしゃれに見えるし、許容されるし、認められる。

スーツでもそうだ。

中身のない人が高いスーツだけ着てもなんだかぱっとしない。

それなりにいいお給金を貰っている方がそれなりに良いスーツを着るとすごく見栄えがいい。

准教授というそう簡単にはなれない業種の人が、(もちろん褒め言葉)あんなことをする。

しちゃっていいんだ、最高にcoolだ、そう思った。

 

私も早くそうなりたい、中身がしっかりしたい、一人の人間として、ちゃんと一人で立てるようになりたい、そういう思いで勉強した。

あっという間に1年が経ち、結果は全勝。

私は大学への切符を手に入れた。

ある意味で他人に認められた。

ある一定以上の中身があると他者に認めてもらった瞬間だった。

 

2013年、大学1年。

この年にミスコンに関してまた新たな出会いが2つある。

まずは部活だ。

中学高校と吹奏楽部だった私は懲りもせず大学でも吹奏楽部に入った。

そこで4年生の先輩に2012年のミスコンにお一人で出場した先輩に出会った。

これは出るしかない。神がミスコンに出ろと言っているに違いない。

こんな偶然あってたまるか、必然に違いない。

私は準備を進めたが、諸事情あってミスコンに出場できなかった。

とても残念だったが、ここで2つ目の出会いが訪れる。

この年にも一人勢がいらっしゃった。

トップバッターでなければ決勝に行っていたのではないかと思う。

感動した。

そして曲解した。

「ミスコンって一人で出てもいいんだ、ふ~ん…一人って決勝進出できないんだ、ふ~ん…」

2014年のミスコンへの出場を心に誓った。

 

2014年、大学2年生。

全略、ミスコン当日。

ここでもミスコンが素晴らしいと思うことがあった。

それは「みんなで楽しもう」という意識が強かったからだ。

前の記事にも書いたが、まさにその通りで、やる方も見る方も、そして他団体を待っているときも楽しむという意識を諸先輩方から教えて頂いた。

なんと素晴らしいことか。

ミスコンはバトルではないのだ。

最強の“余興”なのだ、パフォーマンスなのだ、エンターテインメントなのだ。

いかにして見ている方を楽しませるか、その意識もとっても強かったように思う。

とても勉強になったし、とてもいい経験をさせてもらった。

何よりその輪に自分がいることが幸せだった。

ありがたかった。

改めて感謝申し上げたい。